2006/05/27

傾城反魂香

歌舞伎の話と諸々。

歌舞伎に「傾城反魂香」という演目がある。

絵描きの又平は、吃音のために師匠から厭われ、印可を与えられない。女房のおとくが夫に代わって嘆願するも、かえって師を怒らせてしまう。悲嘆に暮れた夫婦は死を決意し、又平はこの世の名残にと置き石に自画像を描く。するとこの絵が、三尺もの厚さを通りぬけ、石の裏側にも浮かび上がる。又平の絵に対する一途な思いと、二人の夫婦愛が起こした奇跡、と師に認められ、又平は晴れて印可を授かる。

師匠は、又平がどもるたびに「このどもりめが」と辛辣な言葉を加える。又平の吃音はかなり重症で、とっさには言葉がほとんど出ないため、喉にひっかかった何かを飲み下そうとする素振りを繰り返す。この大仰な動きに師は「きちがい」とまで言う。彼の唯一の味方である女房さえも口を滑らして「きちがい」と口にしてしまい、傷ついた又平は「お前までもが気狂いと」と泣きながら彼女を打ち据える。

この芝居の眼目は、あらすじで述べたように「絵への一途な思い」と「夫婦愛」なわけだが、個人的にはこの「吃音=気狂い」という構図に注目したい。これは極端なようで、実は我々の生活に密着したものだからだ。思い返してほしい、貴方は、うまく喋れない人――又平同様の吃音、標準語が不得手な地方出身者、日本語が不自由な外国人――を、通常より高い知能を持つと第一印象から判断したことがあるだろうか。喋れないという一点をもって、それ以上の欠陥を抱えているかのように見做したことはないだろうか。又平は吃音だが、優れた絵師だった。しかし彼は吃音だけを以って「気狂い」と評された。これが芝居の中だけだと断言できる人はいるだろうか。

海外に行った日本人がこう言っていた。「確かに私の英語は小学生レベルだが、それを以って私の知能が小学生レベルであるかのように扱われることが、本当に耐えがたかった。」これが不当なことであるのは自明だが、逆ならどうだろうか。外国人の不得手な日本語から、その本来の知性を感じ取ろうとしているだろうか、我々は。(ここで「俺」としていないことに注意してほしい。俺はこれを徹底してできている人はほとんどいないと判断している)

貧弱なアウトプットからその人となりを判断するのは、一面当然のことではあるが、それを「本当に」当然だと思い込むことは危険だと思う。逆もまた真なりで、例えばいくらブログで真面目くさったこと書いてても思慮の足りないやつはいるのだ。まあ皆さん最低一名は思い浮かんだところで今日の笑点お開き。
この記事へのコメント
これは相当いいエントリなので記念コメントしとこう(´ー`)y-~~
Posted by casanova at 2006年05月28日 02:45
新手の羞恥プレイかと思った(;*´人`)
Posted by tebasaki at 2006年05月28日 14:31
そんなわけで私は歌舞伎のそういうとこもビューティフルだと思っているわけさ。ところで「風の男」で有名な(?)白洲次郎せんせいは、日本語は吃音だった。しかも性格はおせじにも円満とはいえなかった。ところが彼はケンブリッジ卒で、GHQのエラいひとに「英語上手だね」とからかわれて「あなたももっと勉強すれば上手になりますよ」と平然と返したという。多分この話を聞いて快哉を叫ぶわたくしは差別主義でもあるんだろうが・・・
Posted by こるりこ at 2006年05月29日 18:00
白洲次郎せんせい知りませんでしたが、むちゃくちゃかっこいいですねこの人。マッカーサーとの絡みは感動的。まさに快男児といった人なので、必ずしも差別主義とは言えないと思いますよ<快哉
Posted by tebasaki at 2006年05月30日 09:35
「傾城」というからには歌十八番の「鳴神」を下敷きにしているんだろうが、こういうのってなんというか、演出家の気分になってしまうよね。「わざとではないのに・・・」ってエクスキューズがちゃんとあるのに、殴られ肉体を毀損されるのは妻女。ってことは日常的にワイフビーティングがあったってかんがえるのが自然だよなあ、とか、罹病後の雪之丞とかに妻女を演じさせたら、すさまじく無惨でいいなあ、とか。絶世の美女がどんどんおかしくなっていくのもいいなあ。「鳴神」(雷の神通力をもった神官)は雲の絶間姫という傾城の美女に零落されたんだけど、(晴れちゃって雷発生しないんで、神通力を失うというわけね)美貌ではなくしてセックスとDVというイージーで強い刺激によって、きっと見事な芸術からどんどん離れてしまう・・・実は師匠こそはそれをすべて見抜いていたのだった・・・とか。
Posted by こるりこ at 2006年06月02日 22:10
>「鳴神」
そちらはよく分かりませんが、上で紹介した「傾城反魂香」は本来の上・中・下段構成のうち上段の前半で、タイトルの「傾城」は中段以降に出てくる女主人公・遠山が傾城であることからとられているようです。「鳴神」(あらすじ調べました)の傾城=美女とは違ってこちらは=遊女の方なので、直接の関連はどうなんでしょうか。でも「鳴神」おもしろそうですね。あと個人的に師匠はそこまで考えているようには(笑)

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追記。本文中で「又平は優れた絵師」と書いたんですが、「言葉足らずで絵が下手なために誤解される」という解釈で演じられる役者さんもいるそうで。ただ俺は魂がこもったというか何らかの力がこめられた絵は「優れた絵」と考えるので、けっして技量を云々しての記述ではなかったことを追記しておきます。
Posted by tebasaki at 2006年06月03日 10:32
・・・そうなんだよ。「演出家入り」すると、こうやってどんどんどんどん暴走しちゃうんだよねえ・・・
Posted by こるりこ at 2006年06月04日 11:18
元ネタの連鎖が当たり前の世界だしその意味でも記号のオンパレードだし、「演出家」の読み方になるのもむべなるかなっていうかむしろ正当なんじゃないですか。いや今回の暴走が正解かどうかは知りませんがw
Posted by tebasaki at 2006年06月05日 00:33
・・・いやあ、だってちがうお話になってるじゃん。そうだからといって後戻りする気もないわけなんだし>暴走
で、まあ歌舞伎はよくオペラと比較されるんだけど、なにより違うのは脚本と観客の質だったのではないかと思うんだよね。こういうのと同じ頃「敵が実は元カレで息子で生き別れの弟でーーーみんなみんなお城に集まったところで地下の武器庫が爆発して終わり」などとゆー身もフタもないお話・と同じ作曲家の作品を紋付袴の使節団が観てきている。ちなみにこの「爆発して終わり」というのはそれはそれで演出家の腕が鳴るわけなんだけど・・・っていうか無理。
Posted by こるりこ at 2006年06月05日 18:44
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