2007/04/26

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オタク呼ばわりされることが嫌いな知人がいる。聞くと「あたし腐女子じゃないし」。おそらく彼女の中では、女オタク=腐女子という回路が出来上がっているのだろう。というより、理屈では腐女子ではないオタクが存在することは分かっているんだけど、実感としてこのふたつがイコールで結びついてしまうようで。辞書的な意味とは別にある、自分の中の定義だ。

おれは 2 ちゃん見るしたまにまとめサイトも覗くけど、「ねらー」呼ばわりされるのは好きじゃない。これも定義の問題で、おれにとって「ねらー」とは究極、実際に 2 ちゃんを見るか否かとは関係ない。そう自称すること・そう呼ばれるのを受け容れることは「人のブログでキリ番争いだの『vip から来ますた』だの電凸だのオフ会で居酒屋破壊だの放火予告だの殺害予告だのの洒落ですまないようなことまで『ネタをネタとry』なぞ抜かして『2 ちやんねる』への帰属意識の下に正当化しようとする脳の短い人間」だと認めることに等しい。
おれが見てきた「自称ねらー」はそういう類の人間ばかりというだけの話で、辞書的にはその言葉が「頻繁に閲覧したり書き込む人」を指すことは分かっている。が、他の人はおれのようには捉えないだろうとは分かっていても、実感としては上記のような感覚を拭えない。最近は多少落ち着いてきたからそれに気付く余裕もできたけど、以前もっと「ねらー」が嫌いだった頃はこの語と上の意味が完全に結びついていたものだ(恥ずかしながら「ねらー」と呼ばれたことに腹を立てて暴力に訴えたこともある。ありえない)。
おれは辞書的な意味での「ねらー」を嫌ってるわけじゃなくて、上のような人間が嫌いなのだ。そしてそう分かっていても――これが重要なんだけど――この感情は油断するとおれの中で「ねらーが嫌い」と処理される。そのものではなく、語とそれが指す意味の方に引き摺られてしまうのだ。

「オタク」や「ねらー」といった比較的はっきりした言葉でさえこうなんだから、もっと曖昧でデリケートな言葉なんか尚更むずかしい。これが一見かっちり定義されているように見えたりすると更にややこしいことになる。「A が B という意味なのは自明だ、そして A は C だと決まっている、だから B は当然 C だ」という、加速的に決め付けの度合いが強くなる三段論法が成立してしまう。人が「また大阪か」というとき、その大阪は実際に京都と和歌山に隣接する一帯を意味してはいないのだ。

そのものが実際にどうであるかより、語がどういう意味かに振り回される。世の中の争いごとはほとんどここに起因するんだろう。言葉が実際に何を指しているかというのはことほどさように重要で、しかも忘れられやすい。

そう分かっていてなぜおれは未だここにいるのか。悲しい。でもいつか何とかなると思っていたんだよ。続きは web 以外で!
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