2007/03/14

ドジっ子を見たこと、あるいは救済のために

ショップ 99 ――どの程度にチェーン展開しているのか分からないが、おれの生活圏である東京 23 区内ではしばしば目にするこの 99 円均一のコンビニにさっき買い物に行ったら、二ついいことがあった。

一つはテーマソングの復活。
この店はある程度の規模の小売店にはありがちなようにオリジナルソングを持っていて、これが「ショップキュッ♪キュキュッキュキュキュッ♪」というサビの執拗な繰り返しからお客様本位のアピール・間奏の派手なベース音に至るまでくどいほどコテコテにキャッチーな「お店ソング」。これが近所の店舗ではここ数ヶ月間なぜか有線放送に店内 BGM の地位を奪われていて、おれはそれが不満だった。しかし、先ほど行ってみるとこれが華麗なる復活を。素晴らしい。感動のあまり惣菜コーナーの前でしばし立ちすくんだほどだ。ショップキュッ。なんたる語感。

二つにはレジ打ちの女性がなかなかのドジっ子だった点。
この人はおれが入店したときは棚の整理をしてたんだけど、これがかなりの不器用さで、同じ動作を何度も繰り返してるのに作業が進む気配が無い。物を落とす。棚の詰め方が下手すぎる。その合間には律儀に「あ、申し訳ありません」と背後を通る客に頭を下げるから、ますます作業が捗らない。おれが見ていた数分間に彼女が足元の段ボールから棚に移し終えた商品がどれほどのものだったか、数えるに忍びない。しかしそのときもレジ打ちの間も顔は常に燦燦たる笑顔で、まずビニール袋がうまく開かず、開いたところで商品を詰めてても毎度毎度野菜を積み損なってもたつくので、その都度慌てつつもひときわ笑って「ぁぁ、申し訳ありません」。おれがエコーズ Act.2 持ってたら顔の横の余白に「あわわ」とでもぶち込んでやるね。間違いない。ヘブンズドアーで「ミスするたびに舌を出して『またやっちゃった☆』と言う」って書き加えてやってもいい。だからどうってことでもないけど。

さてここで言いたいのはドジっ子萌えの云々ではなくて、ウェルメイドであるということについてだ。

少し注意すれば当たり前のことだが、テレビや大手雑誌・新聞が発信する「日常」像というのは、決して配信される全国各地の平均値をとったものなどではなくて、その殆どは制作企業が拠点を置く東京でのそれを想定したものだ(そうすることで結果的に全人口の一割に容易にフォーカスできるわけだから、最大公約数を楽にとるためだと言えなくもないが、それでも以下の論旨に影響は無い)。だから地方在住者はそれを「日常」ではなく実際には漠然と「ドラマ」として受け取る。この処理は(マスメディアの浸透の成果か)もはや無意識的に行われ、たまに「東京の人は毎日こがんこつしよるとねー」などと口にすると「そうねー東京やもんねえ」ではなく「テレビはテレビでしょうもん」と返されることは珍しくない。しかし実際は「テレビはテレビ」というほどに日常と「像」との乖離は大きくなく、たとえば「山手線のホームで傘を使ってゴルフの素振りをするサラリーマン」というメディアを通じて全国に流布されたコテコテのイメージは、しかししばしば現実のものとして東京に暮らす我々の前に姿を現すのである。そしてそれがしばしばであるがゆえに、東京に暮らす人の多くはそこに価値を見出さず、逆に地方に暮らす人はそんな人が現実にいるとは考えないことが多い。これはもったいないことだ。だって面白いじゃないか、傘で素振りするサラリーマン。

おれがここで言いたいのは、こういった「よくできた偶像」、ウェルメイドな日常にもっと注目すべきじゃないか、ということだ。メディアが流布する「日常」像はそもそも実際の(都会の)「日常」を参考に作られているんだから、都会の現実にそれが現れても不思議はない、という言い方もできるだろう。そういうことを言う人は根っからの都会人だろうからおれの喜びを分かち合うことはできないと思うのでこっちのことは気にしないで下さい。そうでない田舎者の諸君(ひときわ大きい声で)、君たちはこの日常をもっと瑞々しいものとして生きることができるはずなんだよ。それは「うわーテレビで見た東京ミレナリオだ」というランドマーク的なものでは勿論なくて、たとえば先述のホームのサラリーマン、あるいは「なんか文句あんのかよテメェ」というドラマとまったく同じ台本棒読みのようなイントネーションでしかも真剣そのものであるタンカ、あるいはフられた瞬間に「最低!」とダッシュして夕日に溶けていく女子など、そういった「うわー本当にあるんだ」の数々にいちいち新鮮な喜びを感じ得るはずだ。上で挙げたものはやや大味すぎたかもしれないが、先述の「日常」像に実際に近く生活してきた人々が気付かない機微に我々が気付き得るということは事実だ。それも慣れと共に失われる期間限定の感受性なので、本来ならもっと貪欲にそれらの瞬間を味わいつくさなくてはいけないくらいだ。
メディアが作ったイメージが実生活者に影響を与えたのか、メディアが都市生活を忠実に写し取っているだけなのか、この場合それはどちらでもいい。何にせよ、地方出身者にとっては文字通りの媒介(メディア)を通してしか顕現し得ないはずの風景が目の前に現れるということ、メディアが必要以上に自分に接近してきているような錯覚。冒頭のドジっ子にしてからが同じことで、注意力散漫なコンビニ店員など全国津々浦々にごまんといるだろうが、これが標準語になると途端に「テレビで見た」ウェルメイドなドジっ子になり、何か巨大なものが眼前に降って来たような奇妙な酩酊感と高揚が我々を襲うのである。これはもっと大袈裟に驚いたり喜んだりしていいものなんじゃないだろうか。少なくとも東京一千万市民が総じてこの諧謔的な笑いを無視するなんて、おれにはとても勿体ないことのように思えるのだ。

最後に、この長いテキストが必要だった理由を記して結びとしたい:マスメディアやそれを介した広告というものへの脅威がおれの中には抜きがたくあって、就職活動でマスコミを受けた理由の一つにはそういったものへの怖れに打ち克ちたかったこともあったんだけど、就職活動である程度満足な結果を出しても依然そういった恐怖・畏怖は拭えないでいる。「ポップ」については、音楽でこそ馴染めているけど、美術では依然ある種の屈託を除けないでいるし、ポップそのもの=広告については言わずもがなだ。いつか書いた「知ることによる克服」はまだ途上だし、デフォルトでのおれの知性なんてたかが知れたものなのでドゥルーズの「リゾームの哄笑」((C) 田村俶)なんてものには到底至れようもないしそんな牛刀は今のところ必要でもないんだけど、そうやって日々威力に曝されてるおれにとって、焼き鳥の包みを提げ千鳥足で「酔っ払っちゃったよーい」と呻くサラリーマンを見て半狂乱になって笑うことは、案外さしあたっての救いを与えてくれているのではないか――。
先は長い。少しずつ風穴を開けていきたい。ショップ 99 での買い物からそういうことを思った。
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