2007/03/24

give it to me, all night long

卒業が近くて寂しいは寂しいんだけどわざわざサークルの卒展会場に行っても何するでなし、そもそも人と会ったところで夜には一人になってまた寂しくなるのだから根っこから満たされるのは不可能なんだ、と思うと人を求めること自体無益に思えて結局ひとりで過ごす。こういう心根のせいで損をしてきたのだと思う。自分から電話をかけないから通話料がお得という以上のメリットは無い。「人ごみに紛れると涙が出る」と言った桜島の詩人はその点でおれに共感させるけど、彼の周りには常に人がいる。おれには彼のような人望も筋肉も無く、持ち上げられるのはせいぜい紙っきれくらいのものなので、ひとりで本でも読んでいる。と書いていて気付いたけど、あれだな、案外そんなに寂しくないのかもな。さすがに我慢できなくなったら泣きつくもん。楽しいぜ今。「未知で満ち満ちた道で 生きよう 生きてえ Yeah」。つっても自分が繋がってないのは確かなので、最近読んだ本の中で繋がりそうなやつを:
エミール・ハビービー『悲楽観屋サイードの失踪にまつわる奇妙な出来事』(作品社、 2006 )
E ・サイード絶賛のパレスチナ文学。主人公の名=サイード(幸せな男の意)はファースト・ネーム。この、向こうではありふれた名前をもつ彼は、第一次中東戦争以降イスラエル国内に暮らす「パレスチナ系イスラエル人」。タイトルにある「悲楽観屋」というフレーズも含め、主人公サイードの生き様はその「パレスチナ系イスラエル人」という複雑で困難な立場にある人々の姿を象徴している。それだけだと暗くなりそうなんだけど、この作品では、そういった深刻な題材をシニカルな笑いを交えて描いている。本題を離れて、つい「笑い」の強さ・力など考えてしまった。

『カフカ短篇集』(岩波文庫、1987 )
ユダヤ人から凄絶な攻撃を受けるパレスチナ系住民の物語から一転、プラハのユダヤ人=カフカ。カフカの作品からは彼がユダヤ人である必然性は感じられないけど(例えばハビービはパレスチナ人でなくてはならない)それは後述。カフカの短編は好きだ。個人的には「判決」がよかった。着水!
ユアグローを読んでいて、面白いんだけどどうものめりこめないのは、悪夢感という一点で評価しようとしたときどうしてもカフカが頭をよぎってしてしまうからなんだろうなあ。

カフカと一緒に買ったのがこれ。
後藤明生『挟み撃ち』(講談社文芸文庫、 1998 )
冒頭から主人公の寄る辺無さ、何者でもなさが繰り返し独白形式で語られる。たとえば彼は高校まで筑前=福岡で育つのだけど、いわゆる朝鮮からの引き揚げ組なので、同じ地方の出身者と比べても訛りが半端である。
しかし「ジェンジェン」だけは、ぜんぜん駄目だった。
「チクジェン」訛りを持たない、九州筑前の田舎者
こうした「東京と筑前」「文と武」などの二項対立のどちらにも属さない彼はしばしば、その両方から「挟み撃ち」を受けるのである。重箱の隅をつつくようなしつこい描写が、この閉塞感を煽り立てる。これは面白い。「自分の不在感」「東京」といった小道具がいまの自分にしっくり来たらしい。

ところでこの物語の起点となるアイテムは外套であり、ここから狂言回しとしてゴーゴリが頻繁に顔を出す。ので読んでみた。
ゴーゴリ『外套・鼻』(講談社文芸文庫、 1999 )
ゴーゴリは古い翻訳の『狂人日記』しか読んでなかったんだけど、このふたつ続けて読んでようやく雰囲気掴めた印象。ああ好きだゴーゴリ。適当なようで真摯な突き放し方といい居心地悪い悪夢感といい。一応メモしておくと、『挟み撃ち』主人公・赤木←「外套」主人公・アカーキー。「実際、何が起っても止むを得ないだろうし、どんなことだって起らないとは断言できない」(『挟み撃ち』p.26)←「誰が何と言おうと、このような出来事はこの世に起こるのだ、めったにはないが、起こるのである」(「鼻」p.107 )

さて『挟み撃ち』冒頭には永井荷風の日記に関する記述がある。
永井荷風『摘録 断腸亭日乗』(岩波文庫、 1987 )
未読。たぶん読まないんじゃないかなあ。

で、それに言及してる別の本がこれ。
吉田健一『時間』(講談社文芸文庫、 1998 )
途中まで。
荷風については序盤で述べられている。吉田は荷風の日記に見られる狷介な姿勢には否定的で、世間が自分に背いているというような悲観を「根拠のないこと」とはねつけている。
我々は人間であるからこそ根拠がないことを根拠がないことと考えるのでそのようなことがあるから世界は闇だと思うのは、或はそれを衒うのは飛躍であるよりも辻褄が合わないことである。
我々は、変人、奇人であってはならない。
さて読んだのはまだ中盤を少し過ぎたあたりなんだけど、ここまでの時間の捉え方はおもしろい。時計の針の刻みのように断片化されたものでなく、もっと連続したもの。また自分と離れたところで勝手に経つのでなく、自分と共に流れるもの。そう捉えることによって、たとえば過去は「過ぎ去った事実の記録」ではなく現在と地続きになり、翻って現在がより鮮明に意識されるようになる。これは物事を理解する過程にも通ずることで、そうして人生への意識、上述の荷風への言及に至るわけです。連続した時間観などにはベルクソンほかの影響が強いようなんですが、本書は学術論考ではなく、そこから導かれる肯定的なヴァイブスに満ちたエッセイなので、基礎知識が無くても十分に楽しめます。おれ知らんもんベルクソン。

同様に、冒頭からベルクソンを持ち出してくるのがこの本。
小沢秋広『中島敦と問い』(河出書房新社、 1995 )
のっけから小林秀雄のベルクソン理解を批判する(そして終盤まで続く)んだけど、吉田が小林のある種文学的にすぎる「歴史」観から一定の影響を受けたと思しきことを踏まえても、彼の「思い出」と小沢が中島敦に見出した「出来事」のユニークさは通ずるように思う。これは吉田が求める精神の自由な働きが 18 世紀ヨーロッパに由来すること、また小沢が本書でいわゆる「日本的」を批判的に捉えた上で新たな視座を獲得しようとしていることと、無縁ではないだろう。ってとこまでは分かった!(正直)

本書では、中島敦の「文章のうまい古典同人作家」みたいな巷間の評価をひっくり返し、スピノザ主義者としての敦が古典という現代と異質の社会構造をもつ世界を描く中で現代に生きる己の「中心」を探ろうとしたものとし、そこに至る流れを「作家になるプロセス」として考察している。この「中心」の不在を抱えつつもそれを理知的に補おうとする敦の姿勢を綴った箇所は、涙無しには読めません。エキサイティング。後半はちょっと風呂敷大きすぎて困惑しましたが。基礎体力足りないわあ。

先述のカフカについて興味深い記述がある。冒頭でカフカと敦を、それぞれ同様に「中心」を持たないながらも前者はその不在に敢えて固執し、後者はそれを理知的に克服しようとした、という対比をさせている。それを踏まえて、後半。ちょっと長いけど引用。
カフカにおいて重要だったのは、モーリス・ブランショがいうように主人公の人称が「私」という一人称から、「彼」という三人称、語りの主体や主人公の同一性を消去する、中性の語りの声に近づいていく三人称「彼」への移行ではなかった。ひとつの社会を社会として機能させている、諸力の配置、諸要素の配置をそのまま経験していくプロセスを表現するには、「私」が包含する世界との関係は、大きすぎて、作品の中で身動きできなくなった。この贅肉のような余剰が、「K」と書くときには削ぎ落とされて、敏捷な身体や鋭い目や耳になった。そしてこうした敏捷な身体や鋭い目や耳を持って初めて、作品には作品独自の集団的位相が可能になった。
つまり「私」とか名乗ってる時点でもうその社会の干渉を受けてるわけで、そこから離れて「 K 」となったとき初めて、その「私」とかを成り立たせている社会そのものを把握できる、ってことでいいんでしょうか。文脈からの把握はあくまでその一環に過ぎないと。またカフカがプラハという多言語の混在する社会に住むユダヤ人であり、ドイツ語で書くことそのものがこの集団的位相につながっていた点も、独自のアプローチからその位相に達しようとした敦と比較されている( p.200-p.202 あたり)。

ここで筆者の背景が気になるわけだが、小沢秋広は四半世紀近くパリに暮らしており、ジル・ドゥルーズの下で学んだのち『千のプラトー』の共訳にも名を連ねている。脚注を参照するに、このカフカ論は D=G のそれを受け継いだものらしい。D=G ってこれですか(><)わかりません!
ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』(河出書房新社、 1994 )
目次見たらすっげええええおもしろそうなんだけど絶対意味わかんねえんだろうなあ。ということで外堀から埋めていって 10 年後 20 年後に読めたらいいなあ、とか。大岡昇平が晩年、本書を読もうとしたけど視力が衰えて無理だった、とか言ってた。この本に限らず、当面はのんびり勉強してられるけどタイムリミットが無いわけじゃなし、無為に過ごすのは時々にしたいもんだ。いつもじゃ困るって。ちなみに外堀本のひとつ、ズーラヴィクビリ『ドゥルーズ ひとつの出来事の哲学』は訳者の長い前書きで知られるそうだけど、それをやらかしたのが何を隠そうこの小沢先生だ。おいおい読んでみたい。分かんなくてもいいんだ。今はそれでも面白いから。

ところで。『時間』を読んでいると時間の中にいる人がその動き続ける時間と共に身を置いているイメージは浮かぶんだけど、それを語る当の吉田健一自身にはなんだか超然とした印象を持つのは事実で、そうするとまあこれを思い出すわけだよ。

『クロノ・トリガー』( V ジャンプブックス、 1995 )(リンク無)
吉田健一は時の最果てにいる! スペッキオ! ええ、古本屋で攻略本見かけたから買っちゃいました。もちろんスーファミ版だぜ。amazon にも無えぜ。ダークマターーー(残響を残して退場)
この記事へのコメント
ドゥルーズ=ガタリは去年の秋くらいに『カフカ』にチャレンジして途中で止めてしまったよ。じぶんのあたまの出来に悔しさを覚えつつ。

というかさいきんいっぱいチャレンジしてますね。貪欲うらやましい。
Posted by かさのば at 2007年03月25日 11:59
ドゥルーズ=ガタリはお友達のルネ・シェレール(エリック・ロメールの弟)あたりから入ると読みやすいかと。
Posted by basilides at 2007年03月25日 15:34
>前衛舞踏家かさのばさん
やはりいきなり本陣に切り込むのは難しいのか…うへあ。
いっぱいチャレンジしないと前衛舞踏家になれないんです!
本当は踊りたいだけだったりします。芸術ダンスうらやましい。

>basilides さん
ありがとうございます。機会つかまえて読んでみたいと思います。
Posted by tebasaki at 2007年03月27日 12:15
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