2007/04/27

3

スピードワゴンというお笑いコンビをはじめて見たときの感覚は今でも覚えている。当時の彼らは今の「あまーーーい」を生み出す前だった。当時の定番は、ボケの小沢が世界の描写をどんどん逸脱させていき、途中までそれに付き合っていた井戸田が遂に「そんな世界あたしゃ認めないよ」と匙を投げる、というもの。おれにはそれが妙に感動的だった。否定が笑いをもって受け容れられることが。

誰か/何かを思い切り否定してそれが全面的に受け容れられる――なんてのは、我々の生活においては漫才ほど容易じゃない。まず対等の誰かを否定すること自体が必ずしも褒められたことじゃないし、その内容もまた別問題になるので、ある程度限られた条件の下でなければ同意を得にくい。しかし否定することはあまりに容易い。易きに流れれば何でもかんでも否定できる。とはいえ無難な肯定こそ安直なのもまた事実で、難しいのは「進歩を目的とした否定」だ。あれはこうだから良くないと思う、良いと思うなら聞かせてくれ、納得したらおれも好きになるだろう。その姿勢は大切だ。しかしこれはファイティングポーズの一種なので、やはり時と場合によって避けるべき態度だ。日常は戦場じゃない。かように、否定は難しい。

なんでも好きになりたいので、いま好きじゃないものについては率先してイメージを動かそうとしている。つまりファイティングポーズだ。しかし日常は戦場ではなくて相手はおれより大人なので、結局殴り合いにはならず場は穏当に収まり、ただおれのネガティブな意見表明という形で終わる。まあそれは相手に咎は無くておれが空気読めないのが全面的に悪いんだけど、とにかく現状としてネガティブな言葉を撒き散らすだけに止まっていて、すると自分の言葉のネガティブさに引き摺られそうになる。それを危うく思って、言葉とある程度距離をもとうとする。言葉は方便であって意志とは別のところにある、それは人の言葉からその人となり全てを判断できると思うような誤解を避けることでもある。ところがこれがまた悪くて、客観性を持つためにつくった距離が開きすぎて、自分の言葉の重みを感じられなくなる。「言葉が方便である」というのは、○:「言葉はあまりに強力なツールだから無自覚に振り回すんじゃなくて気をつけて使いましょう」という主旨に繋がるものであって、×:「本当に大事なものは別のところにあるんだから言葉は二の次でいい」ということにはならない。ならないのに。

自律が自分を脅かす。なんのための理想なのか。tebasaki はひとところに止まったまま腐るしかないし雨曝しなら濡れるしかないしポルナレフは死ぬしかない。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。