2007/04/25

5

自分がされたら嫌だと思うことを人にしてはいけません
それは正論だけど、これは「自分がされても平気なことは人にしてもいい」とは違う。たとえば僕は「キチガイ」と呼ばれることに喜びさえ感じるような人間だけど、だからといって僕が人をそう呼んでいいということにはならない。自分の感受性を免罪符にするのは正しくない。

分かっていてもそれをやってしまうのは、自分がひどく不寛容だという自覚があるからかもしれない。「こんなに不寛容な自分が受け容れられることなんだから、相手が受け容れられないはずはない」という理屈だ。相手の寛容を勝手に高く見積もって理解や我慢を強要しているわけだ。そもそも寛容性というのは絶対量じゃなくて質の問題なので、仏のような人がただひとつまったくくだらない点で怒るのを我慢できない、ということだって当然有り得る。つまり上の「理解や我慢の強要」は、卑屈が裏返った傲慢さ以外の何物でもない。
今までいくつも書いてきた自戒用の文章。しかし今回は自然にこう続いた。
そう理解はできる。しかしそれよりも、おれの寛容を丸ごとすっぽり包み込んでしまうような、そんな寛容をおれ以外のほとんど全ての人は備えているのだ、おれなぞおれなんて、という思いのほうが遥かに実感的なのだ。それは手首の傷を見せびらかすような不幸自慢とか欠損自慢の類と何が違うのかというと
書き切ったところからようやく何かがはじまるはずのテキストが着地点を見失ったとき、ここも限界かもしれない、とはじめて思ったのだった。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。