2007/04/28

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僕にとって「芸術」とはなんだかとても崇高なもので、ほんの一握りの人間がそれに愛されて「美の女神に祝福された」作品を十把一絡げの我々の前に見せてくれるのだ、となんとなく感じている。だからそんな素晴らしい芸術を生み出せる人間がそうそうそこいらにいるはずないので、それが出来ますという顔をした自称アーティストがゴロゴロしている様子は、言ってしまえば信じがたい。それはなんだか素晴らしいものであるはずの「芸術」が冒涜されているようで。しかし一般に「芸術」というのは必ずしもそんなご大層なものではないようで、そう大上段に構えなければ自由な創作というやつは悪いもんじゃない。はずだ。問題は「芸術」をむやみやたらに神格化する心性の方にあって、要するに僕は「芸術」が結局何であるのかよく分かっていないのでそれに由来する自称アーティストへの不信は口に出すに値しない。

さて、よく分からないものをとりあえず崇拝するというのはあまり理知的なことじゃないけど、それはコロンビアの諺にあるように人間にはよくあることだ。かの地を代表する作家ガルシア・マルケスはしばしば、この諺を引いては人々の「盲目の崇拝」を作品に採り上げている。事実、我々が普段なんとなく許容しているものには、よく考えると何故良いのか分からないものが少なくないはずだ。それは多くの人がそんなことに深くかかずらう必要が無いから淘汰されていないだけという面もあろうが、しかしそれ自体無意味なことではない。こういった一種の幻想は事実そこに存在している以上つくりあげた誰かがいるはずで、それは往々にして産業基盤に乗っているのだからその誰かが得をしているはずだ。いまさらだが、我々ひとりひとりを少しずつ騙すことで食べている人間がいるわけだ。それ自体の良し悪しはここでは問題としない。当たり前のことだから。

名前をつけるのは定義することだ。言葉にするのは形にすることだ。漠然とした幻想も、言葉にしようとすると輪郭が見えてくる。もちろん言語化というのは非言語の近似値をとることに過ぎないので、それを見誤ると、言語化したところで幻想が別のいびつな何かになってしまうだけだ。「これはなんだろう」と思ったら、ひたすらそれを凝視しては記述し、推敲を繰り返すしかない。推敲を忘れる、あるいは疎かにすると、誤った記述や定義に引き摺られる。

そもそも、幻想は取り除かれるべきものだろうか。人間の視界は左右の角度にして 180 度程度で、そのうちいちどきにピントが合わせられるのはせいぜい 2〜3 度だそうだが、それでも我々の目に映る世界はあまりに厳しいもので、ならばピントが合い過ぎた世界の残酷さを思うと、177 度の索漠に囲まれて嘘っぱちの安心を貪るのが賢明に思える。たとえばコロンビアに件の諺が存在しなかったら何だというのだろう。ガルシア・マルケスは当然そんなもの引用してないけど、別にそんなことどうでもいいじゃない。人間にはよくあることだよ。
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