2007/04/30

おわり

おそろしくいい天気だ。いいね。
今までの人生で今日くらい晴れた日は何度もあって、その無数の晴れた日の思い出から何を選び取るかはその都度違う。同じ晴れた日でも素晴らしい日も辛い日もあって、素晴らしい日を思い出す日も辛い日を思い出す日もある。思い出が思い出を醸成して日々は青空というひとつの出来事から無限にリンクしていっておれはただ年をとる。今日は多分いい日だろう。たまには外には出かけずに、読んだり観たりしながら更新して過ごそうと思う。
「あの、フツーの苗字ないんですか?」
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20070429
おれの姓もかなり珍しくて、電話口で聞き返されないことの方が少ないし、時には失礼な対応をされることもある。でもあまり怒ることはなくて(怒るとしても名前を辱められたこと自体にではなくて「仕事なんだからチャッチャとこなせよ面倒くせえなバカ」という職業意識への憤り以上のものではない)、それは崔さんのように出来た人だからではなく単に鈍感だからなんだけど、それが自分で不思議だったりもする。確かに「人間にとって自分の名前をバカにされるというのは、とても悔しくて悲しいことなのです」という言葉はまったく正当だと思うんだけど、おれは自分の立場にも拘らずそういった実感をあまり持てない。いつもくだらないことで怒ってるのに、なんで名前に関する無礼には敏感に反応しないんだろう。そんなことだから人に対しても繊細でいられないんだ、と、無神経な人間特有の間違った凹み方をしたりもする。

まあいいよ。とりあえずこの書店員の対応はありえないよね。フツーの店員いないんですか?
この場 見てのとおり ただの、ただの
TWIGY のアルバム「 TWIG 」には ECD がライナーノーツを寄せていて、これがとてもいい。昔イベントで、この二人に YOU THE ROCK を加えた三人で曲を披露したところ、トリの TWIGY が出る前に客がヒートアップしすぎてしまい、主催者がマイクの電源を落としてイベントは中断となった。当然 TWIGY としては面白くない。そこでマイクを放り出して帰ってしまうか、ステージ裏で当り散らすか、無理にでも歌ってしまうか、不満の示し方はいくらでもあっただろう。しかし TWIGY が実際にしたことは、「スタッフの女性のスカートをぺろりとめくり上げた」…。ECD はこれを「センスがいい」と書いている。おれはこう言ってしまえる ECD も素敵だと思うし、もちろんこんな洒落のきいたことをさらりとやってのける TWIGY は物凄くかっこいいと思う。「スカートをめくられた女の子がかわいそうだ!」ですか。黙ってろよバカ。そういう話じゃねえ。
ああ、バカは俺だった
あるベテラン編集者 A の話。
文芸志望だった A は、若い頃、週刊誌配属にされて腐っていた。彼の仕事は当時超売れっ子だった漫画家の仕事場に張り込み、他社の担当よりも早く原稿を奪い取ること。とはいえずっと待ってるのも閑なので、どの社の編集者も仕事場の隅でその週に出たマンガ雑誌を回し読むのだった。そしてどこかの原稿が上がると漫画家はアシスタントを引き連れて飲みに出かけるので編集者もぞろぞろついていき、飲みの席ではひたすら下ネタとバカ騒ぎ。文学への熱き思いをたぎらせた若手編集者 A には耐え難い生活だった。曰く「なんてバカな連中だ」。
そんなある日の飲み会。一人の編集者がポツリと言った。「今週の週刊××の●●先生、よかったなあ」。すぐに別の編集者が言う。「あのコマ割りはすごかったな、今までの●●先生にはなかったよアレは」。また別の編集者。「そうそう、今まではあの流れだとこうだったからな」。聞いていた漫画家も言う。「今まで彼は俯瞰を描けなかったんだよな」。最初の三人とは別の編集者。「そうですよね、描いたのは×ヶ月くらい前の何回かで、あれに比べると格段に進歩してる」。その後も鋭い指摘と分析の嵐、その中で A は一言も喋れなかった。そのマンガは読んでいたのに、彼等のように真剣に読み込んではいなかったからだ。A は思った。「ああ、バカは俺だった」…彼は身をもって「プロフェッショナル」というものについて学んだのだった。

いい話じゃないですか。違う? じゃあそれは伝えるおれの力量不足だ。くたばれ>おれ
4/26/2007 ギフト券による支払い -\1547.00
amazon からギフト券が来ててビックリしたんだけど、そうかアフィリエイトってこうやってお金もらえるもんなんだね(いまさら)。おれが紹介したもの・そうじゃないものを問わず、ここを介して買い物をしてくれる人が相当数いたのかと思うと、急に今までの無責任が申し訳なくなるね。ありがとうございました。中でも、おれが紹介したものを買ってくれた方はそれを楽しんでくれただろうか、と、ちょっとドキドキしたり。『 palepoli 』はいいマンガだと思うので、あなたも好きになってくれたら嬉しいです。

面識の無い方からメールをいただいたりもした。これも驚いた。おれにとってここをやっていたのは、確かに外部に向けて発信してはいるけどそういう形をとること自体に意味があって、結局全部自分の中に意味があることだった。だから、ここを閉じるときも自分の中だけで完結するものだと思っていたので、このいくつかのメールには本当に面食らった。どうでしょうか、楽しんでいただけたんでしょうか。なら幸いです。


ただ更新してるだけじゃなくて、なんだかよく分からない雑用もしている。そもそもこいつのせいで今日は家から出られないんだよなあ。合間に本読んだりしてるといい言葉があり:
あのころの酒は旨くなかった。毎晩飲むので旨くもなく、感動もなかった。今は酒が旨い。三日禁じて、今夜は飲めると思うと嬉しくて朝も早く目が覚める。その日の高座は楽しい。何だか長生きできそうだ。
噺家・川柳川柳師匠の自伝より。この人がまた破天荒を絵に描いたような人間で、師匠宅の玄関に脱糞したり三遊亭から破門されたりしながら、70 を過ぎた今でも滅茶苦茶やりつつ高座に上がっている。
おれは酒が好きだけど、こういう人はまた違った味わいを感じてるんだろうなあ。いつになるか分からないけど、そうやって今と違う酒を飲めるようになる日が楽しみだったりする。
何時にはじめるかが問題
同じ ECD の「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」は「ソバヤソバーヤ」((C)タモリ)を思い出してしまってダメだ、おれが。こないだ選挙のとき高円寺駅前で起こっていた出来事は確かに事件だっただろうけど、おれはアホの子なので政治とかよく分からない。文学も読んでない。肉体労働に耐えるカラダも持ってないし、専攻の会計もさっぱりだし、パソコン組み立てられないし施盤も無理。それでも何とかお給金をもらって生活できていて、だから生きる辛さというのは、言うこと聞くよな奴等じゃない人たちに比べると切迫したものじゃなくて、おれにとってもっと甘っちょろい観念的なアレだ。だから甘っちょろく観念的な喜びでそれに対峙していくつもり。切羽詰った辛さには即物的で現実的な喜びで。返す刀を間違わなければ幸せになるのはそう難しくないんじゃないかと、また甘っちょろく考えている。間違わなければ、だけど。でもそれがすべてなんだよなあ。何をはじめるか、何時にはじめるかが問題。
The impossible is possible, tonight.
気持ち悪い話だけど、おれは何年も前のある夜にとても落ち込んでしまい、自転車で近所の神社に行って一人境内に体育座り、携帯プレイヤーで Smashing Pumpkins "Tonight, Tonight" を聴いた。いやこうやって書き出してみても本当に気味が悪いし曲のセレクトも含めたその風景が「寒い」んだけど、あそこまで突き抜けると却ってこうおおっぴらにしても平気なもんだ。おれはセンスが無いせいでこれ以外にも恥ずかしい過去を背負わされてて、その中ではこの「夜の神社で "Tonight, Tonight" 」は吹っ切れててまあ悪くないかと思う。実際やってみたら泣くでもなく我ながらセンス無えなあと思ったけど、それでもなんだか笑えてしまって、落ち込み自体は忘れることができた。曲も終わって肌寒かったので帰ろうと立ち上がると、リピート再生にしてたのを忘れていたので、思いがけずあの魂を鼓舞するようなイントロが再び流れ出した。鳥肌が立った。そしてまた我に返っては噴きだして、自転車にまたがり、夜を滑って帰った。今夜なんとなくそれを思い出してる。
なんで自分がこの戦争で死ななければいけないのか考えました。納得したいと思いました。それが日本のためだというなら、ということで、あのころ流行の哲学者から、遡って本居宣長やら藤田東湖やらなにやら、片っ端から読みました。納得できませんでした。
克服ということをよく考える。おれはポリシーが無いわりに強情で、自分を曲げることが苦手だ。ならその「自分」の方を問題に沿うように作り変えてしまえば、強情なままで曲がらずに意志を遂げられるんじゃないか。いずれは竹のように、というか海藻くらいぐねぐねと適当なじじいになりたいんだけど、今はどうにも曲がらないので、なにがしかの手を講じて「克服」していくしかない。前にもなにかで書いたけど、上の引用文のように知ることで人生の障碍を乗り越えていこうとする姿勢はおれを常に感動させるので、自分の「中」で起きること、差し当たってはたとえば単純な好き嫌いに伴う感情のブレなんかはそうやって克服していきたい。

でも案外難しいのは「嫌い」より「好き」の乱れだったりするよな。脳味噌に好きなものを司る部分ってのがあると思うんだけど、そこを脅かされたときに(最近のザゼンボーイズは自らこの攻撃をおれに加えている)何が出来るか・何をすればいいのか。どうせ理屈で固めるならここまでやらなきゃ嘘だよな。これは今後の課題。


きょう東京はよく晴れていた。太陽の匂いをたっぷり吸い込んだ布団にもたれ、風呂上りに、中学生の頃の一張羅で今はすっかり寝巻きになっている T シャツを着て、酒を飲んでいる。この T シャツを大事な日にしか着なかった頃は飲めなかった、ドライマティーニなんか作っている。こしゃくな小僧だ。でも美味いんだよこれが。
そして、おねえちゃんは あやちゃんが だいすきです。
そして、とってもとっても だいすきです。
ある絵本に出てくる一節、入院した小さな妹=あやちゃんに、こちらもまだ幼い姉が書いた手紙の一部。これは地の文ではなくて、絵の中にさりげなく見えるだけなのだけど、その小さな字を一字一字拾って判読したとき、おれは泣いた。ノーガード。こんな美しい言葉があるだろうか。「そして」というリフレインの切実さにおれは眩暈をいつまでもいつまでも。一億と二千年後も愛してるんだぜ。


つまみ買ってきた。もう少し飲んで寝る。今日は酒のつまみしか食ってないなあ。今までもごくたまにこんな日があって、そういう日はとても楽しかった。
気持ちを言葉にすることには絶対的に揺るがない、永劫の価値でもあるんだろうか?
ははは。 ある。 あるよ。 全ての気持ちがそうであるとは言わないけれど、僕たちの気持ちの中には、絶対に言葉にしないと、何と言うか、自分を蝕んでしまうようなものが紛れ込んでいる。
蝕まれるのは好きじゃないから。
われわれ自身のなかで一神教的な考えがどれぐらい拡がっているかというと、一つ典型的なものは、「変わらない私」「ほんとうの私」ってやつです。若い人は、ネクラとかネアカとか言ってますけど、ネアカとかネクラっていうふうに言ってること自体が、すでに性格は変わらないという暗黙の前提を置いてます。(…)だから、いまの若い人は変わらない私がある、それがほんとうの私で、それが世界にたった一つの花だと、どこかで思ってますよ
養老ブレイン孟司せんせいの講演録からなんだけど。前に、ああもう消したかな、板尾創路が「一年後に今とまるっきり違うこと言っててもいいと思う」って言っててすごいそれが良かったんだけど、この養老せんせいの言葉も同じようにクールで清々しい。こういう「ホンモノなんてねえよ」って言葉は嘘がなくて好きだ。んで発言の主旨にはおれは半分同意で、「変わらない私」なんてもんは確かに無いと思うし、自分探しとか言って旅行か何かしてポッと見つけられちゃうような「ほんとうの私」は何も「ほんとう」なんかじゃねえと思うんだけど、でもおれが求めていた「おれ」も結局そういうスピリチュアルな「ほんとうの私」と何が違うのか説明しにくい。もしかしたら同じことなのかもしれない。だから半分だけ同意。
でもいい。おれにとって「ほんとうの私」は未来絵図というか在り得べき姿というか、現状を「こんなもんじゃねえ」と否定して前進するための叩き台として必要だったわけで、結局その試みは躓いちゃったけど、それでも間違ってはいなかったと思ってる。ニーツオルグにはなれなかったよ。でも続くぜバーカ!
ラストデイはまだ来ないけど、作品は終わるし、ターンテーブルだっていつかは止まる
えー最後だから書くけど、おれがインターネット上で文章を書こうと思ったきっかけは「インターネット殺人事件」。このサイトではおれが好きなものがおれの想像もつかない形で採り上げられていて、あーとゆう間に虜にされた。おれも好きなものを好きなように書きたいと思って、ここがはじまった。
実際書き始めてから自分の中で大きな意味をもつことになるサイトは三つ:「ニーツオルグ」、「アシュタサポテ」、「オールアバウトカサノバスネイク」。おれが tebasaki という署名に違和感を感じ始めた頃、ニーツオルグは凄まじい衝撃をおれに与えた。書くことの意義を思った。アシュタサポテにはただ憧れた。ほんとうに素晴らしいテキストばかりだ。オールアバウトカサノバスネイク、いまは ITCHYCOO と名前を変えているけど、おれがここをどういう風に読んでいたかは、他のふたつに比べると言葉にしにくい。ただ大好きだった。これからも読み続けると思う。三つともおれのずっと前を走り続けていて、力強くて端正でちょっと崩れてて時々優しくて、とにかくかっこよかった。それぞれまったく方向性は違うサイトだけど、言葉を吐き出すことにいつも真剣だったのが共通点と言えるかもしれない。うーん言葉足らずだなあ。でも本当に尊敬したりしたよ。うは。あ、敬称略。

テキスト垂れ流しを自称しつつ、こういうサイトみたいにやれたらいいなあ、と漠然と思わない日はなかった。どこまでやれたか分かんないけど、それなりに真剣にやった。たかがインターネット、じゃねえよなあ。だって自分で喋ってんだもん。何かあるだろ、なあ。
他人の気持ちを知ろうとするのは自分のためだ。他人の感情を自分に都合のいい方向に誘導したり、他人の心境を自分の行動の指針としたりするためだ。「人に迷惑をかけない」というのも結局は「自分がされたくないことは人にしない」「他人に不快感を与えているという居心地の悪さを回避する」という動機のはずだ。

サイトはじめたときに書いた文。全然進んでないのな。わらった。

さておしまいだ。前にネタサイトみたいにしたらどうか、と人に言われたことがあったけど、おれにはそれは出来なかった。そういうことするにはちょっとここは大事すぎた。またインターネットに自分じゃない人として戻ってくることがあるとしたら、もっともっと自分から離れた誰かを用意してくることだろう。思えば、tebasaki という人とおれとの間には何だか不思議な間隔があった。けどそれがなんとなく好きだったりしたわけで。よい遊びでした。なんだかんだ実り多く。

むかし、鳩が羽を天に突き上げたまま、胴体を車輪にひき潰されて死んでるのを見た。サモトラケのニケを見たとき最初に思い出したのはこの鳩の死骸だった。なぜ手羽先なのか、って訊かれたら、もしかしたらこのときの羽が脳裏にあったからかもしれない。違うかもしれない。どうでもいい。ただ何かの思いつきのように生まれた tebasaki という人格がこうして大往生を遂げられるのが、結構うれしかったりする。
"casanovastyle" rock da house yo "こるりこ" rock da house yo "basilides" keep rockin da house yo "konagona" turn da house yo "wonder88" rock da house yo rock steady oooo weee
書いちゃったよ。あはは。すみません。

最後に。好きな歌があるんですよ。
あの曲を いま聴いてる
忘れてた君の顔の輪郭を ちょっと思い出したりしてみる
ありがとうございました。さようなら。
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