2007/05/01

iggypopfanclub.seesaa.net

更新は終了しました。ありがとうございました。

2007/04/30

おわり

おそろしくいい天気だ。いいね。
今までの人生で今日くらい晴れた日は何度もあって、その無数の晴れた日の思い出から何を選び取るかはその都度違う。同じ晴れた日でも素晴らしい日も辛い日もあって、素晴らしい日を思い出す日も辛い日を思い出す日もある。思い出が思い出を醸成して日々は青空というひとつの出来事から無限にリンクしていっておれはただ年をとる。今日は多分いい日だろう。たまには外には出かけずに、読んだり観たりしながら更新して過ごそうと思う。
「あの、フツーの苗字ないんですか?」
http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=60769&pg=20070429
おれの姓もかなり珍しくて、電話口で聞き返されないことの方が少ないし、時には失礼な対応をされることもある。でもあまり怒ることはなくて(怒るとしても名前を辱められたこと自体にではなくて「仕事なんだからチャッチャとこなせよ面倒くせえなバカ」という職業意識への憤り以上のものではない)、それは崔さんのように出来た人だからではなく単に鈍感だからなんだけど、それが自分で不思議だったりもする。確かに「人間にとって自分の名前をバカにされるというのは、とても悔しくて悲しいことなのです」という言葉はまったく正当だと思うんだけど、おれは自分の立場にも拘らずそういった実感をあまり持てない。いつもくだらないことで怒ってるのに、なんで名前に関する無礼には敏感に反応しないんだろう。そんなことだから人に対しても繊細でいられないんだ、と、無神経な人間特有の間違った凹み方をしたりもする。

まあいいよ。とりあえずこの書店員の対応はありえないよね。フツーの店員いないんですか?
この場 見てのとおり ただの、ただの
TWIGY のアルバム「 TWIG 」には ECD がライナーノーツを寄せていて、これがとてもいい。昔イベントで、この二人に YOU THE ROCK を加えた三人で曲を披露したところ、トリの TWIGY が出る前に客がヒートアップしすぎてしまい、主催者がマイクの電源を落としてイベントは中断となった。当然 TWIGY としては面白くない。そこでマイクを放り出して帰ってしまうか、ステージ裏で当り散らすか、無理にでも歌ってしまうか、不満の示し方はいくらでもあっただろう。しかし TWIGY が実際にしたことは、「スタッフの女性のスカートをぺろりとめくり上げた」…。ECD はこれを「センスがいい」と書いている。おれはこう言ってしまえる ECD も素敵だと思うし、もちろんこんな洒落のきいたことをさらりとやってのける TWIGY は物凄くかっこいいと思う。「スカートをめくられた女の子がかわいそうだ!」ですか。黙ってろよバカ。そういう話じゃねえ。
ああ、バカは俺だった
あるベテラン編集者 A の話。
文芸志望だった A は、若い頃、週刊誌配属にされて腐っていた。彼の仕事は当時超売れっ子だった漫画家の仕事場に張り込み、他社の担当よりも早く原稿を奪い取ること。とはいえずっと待ってるのも閑なので、どの社の編集者も仕事場の隅でその週に出たマンガ雑誌を回し読むのだった。そしてどこかの原稿が上がると漫画家はアシスタントを引き連れて飲みに出かけるので編集者もぞろぞろついていき、飲みの席ではひたすら下ネタとバカ騒ぎ。文学への熱き思いをたぎらせた若手編集者 A には耐え難い生活だった。曰く「なんてバカな連中だ」。
そんなある日の飲み会。一人の編集者がポツリと言った。「今週の週刊××の●●先生、よかったなあ」。すぐに別の編集者が言う。「あのコマ割りはすごかったな、今までの●●先生にはなかったよアレは」。また別の編集者。「そうそう、今まではあの流れだとこうだったからな」。聞いていた漫画家も言う。「今まで彼は俯瞰を描けなかったんだよな」。最初の三人とは別の編集者。「そうですよね、描いたのは×ヶ月くらい前の何回かで、あれに比べると格段に進歩してる」。その後も鋭い指摘と分析の嵐、その中で A は一言も喋れなかった。そのマンガは読んでいたのに、彼等のように真剣に読み込んではいなかったからだ。A は思った。「ああ、バカは俺だった」…彼は身をもって「プロフェッショナル」というものについて学んだのだった。

いい話じゃないですか。違う? じゃあそれは伝えるおれの力量不足だ。くたばれ>おれ
4/26/2007 ギフト券による支払い -\1547.00
amazon からギフト券が来ててビックリしたんだけど、そうかアフィリエイトってこうやってお金もらえるもんなんだね(いまさら)。おれが紹介したもの・そうじゃないものを問わず、ここを介して買い物をしてくれる人が相当数いたのかと思うと、急に今までの無責任が申し訳なくなるね。ありがとうございました。中でも、おれが紹介したものを買ってくれた方はそれを楽しんでくれただろうか、と、ちょっとドキドキしたり。『 palepoli 』はいいマンガだと思うので、あなたも好きになってくれたら嬉しいです。

面識の無い方からメールをいただいたりもした。これも驚いた。おれにとってここをやっていたのは、確かに外部に向けて発信してはいるけどそういう形をとること自体に意味があって、結局全部自分の中に意味があることだった。だから、ここを閉じるときも自分の中だけで完結するものだと思っていたので、このいくつかのメールには本当に面食らった。どうでしょうか、楽しんでいただけたんでしょうか。なら幸いです。


ただ更新してるだけじゃなくて、なんだかよく分からない雑用もしている。そもそもこいつのせいで今日は家から出られないんだよなあ。合間に本読んだりしてるといい言葉があり:
あのころの酒は旨くなかった。毎晩飲むので旨くもなく、感動もなかった。今は酒が旨い。三日禁じて、今夜は飲めると思うと嬉しくて朝も早く目が覚める。その日の高座は楽しい。何だか長生きできそうだ。
噺家・川柳川柳師匠の自伝より。この人がまた破天荒を絵に描いたような人間で、師匠宅の玄関に脱糞したり三遊亭から破門されたりしながら、70 を過ぎた今でも滅茶苦茶やりつつ高座に上がっている。
おれは酒が好きだけど、こういう人はまた違った味わいを感じてるんだろうなあ。いつになるか分からないけど、そうやって今と違う酒を飲めるようになる日が楽しみだったりする。
何時にはじめるかが問題
同じ ECD の「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」は「ソバヤソバーヤ」((C)タモリ)を思い出してしまってダメだ、おれが。こないだ選挙のとき高円寺駅前で起こっていた出来事は確かに事件だっただろうけど、おれはアホの子なので政治とかよく分からない。文学も読んでない。肉体労働に耐えるカラダも持ってないし、専攻の会計もさっぱりだし、パソコン組み立てられないし施盤も無理。それでも何とかお給金をもらって生活できていて、だから生きる辛さというのは、言うこと聞くよな奴等じゃない人たちに比べると切迫したものじゃなくて、おれにとってもっと甘っちょろい観念的なアレだ。だから甘っちょろく観念的な喜びでそれに対峙していくつもり。切羽詰った辛さには即物的で現実的な喜びで。返す刀を間違わなければ幸せになるのはそう難しくないんじゃないかと、また甘っちょろく考えている。間違わなければ、だけど。でもそれがすべてなんだよなあ。何をはじめるか、何時にはじめるかが問題。
The impossible is possible, tonight.
気持ち悪い話だけど、おれは何年も前のある夜にとても落ち込んでしまい、自転車で近所の神社に行って一人境内に体育座り、携帯プレイヤーで Smashing Pumpkins "Tonight, Tonight" を聴いた。いやこうやって書き出してみても本当に気味が悪いし曲のセレクトも含めたその風景が「寒い」んだけど、あそこまで突き抜けると却ってこうおおっぴらにしても平気なもんだ。おれはセンスが無いせいでこれ以外にも恥ずかしい過去を背負わされてて、その中ではこの「夜の神社で "Tonight, Tonight" 」は吹っ切れててまあ悪くないかと思う。実際やってみたら泣くでもなく我ながらセンス無えなあと思ったけど、それでもなんだか笑えてしまって、落ち込み自体は忘れることができた。曲も終わって肌寒かったので帰ろうと立ち上がると、リピート再生にしてたのを忘れていたので、思いがけずあの魂を鼓舞するようなイントロが再び流れ出した。鳥肌が立った。そしてまた我に返っては噴きだして、自転車にまたがり、夜を滑って帰った。今夜なんとなくそれを思い出してる。
なんで自分がこの戦争で死ななければいけないのか考えました。納得したいと思いました。それが日本のためだというなら、ということで、あのころ流行の哲学者から、遡って本居宣長やら藤田東湖やらなにやら、片っ端から読みました。納得できませんでした。
克服ということをよく考える。おれはポリシーが無いわりに強情で、自分を曲げることが苦手だ。ならその「自分」の方を問題に沿うように作り変えてしまえば、強情なままで曲がらずに意志を遂げられるんじゃないか。いずれは竹のように、というか海藻くらいぐねぐねと適当なじじいになりたいんだけど、今はどうにも曲がらないので、なにがしかの手を講じて「克服」していくしかない。前にもなにかで書いたけど、上の引用文のように知ることで人生の障碍を乗り越えていこうとする姿勢はおれを常に感動させるので、自分の「中」で起きること、差し当たってはたとえば単純な好き嫌いに伴う感情のブレなんかはそうやって克服していきたい。

でも案外難しいのは「嫌い」より「好き」の乱れだったりするよな。脳味噌に好きなものを司る部分ってのがあると思うんだけど、そこを脅かされたときに(最近のザゼンボーイズは自らこの攻撃をおれに加えている)何が出来るか・何をすればいいのか。どうせ理屈で固めるならここまでやらなきゃ嘘だよな。これは今後の課題。


きょう東京はよく晴れていた。太陽の匂いをたっぷり吸い込んだ布団にもたれ、風呂上りに、中学生の頃の一張羅で今はすっかり寝巻きになっている T シャツを着て、酒を飲んでいる。この T シャツを大事な日にしか着なかった頃は飲めなかった、ドライマティーニなんか作っている。こしゃくな小僧だ。でも美味いんだよこれが。
そして、おねえちゃんは あやちゃんが だいすきです。
そして、とってもとっても だいすきです。
ある絵本に出てくる一節、入院した小さな妹=あやちゃんに、こちらもまだ幼い姉が書いた手紙の一部。これは地の文ではなくて、絵の中にさりげなく見えるだけなのだけど、その小さな字を一字一字拾って判読したとき、おれは泣いた。ノーガード。こんな美しい言葉があるだろうか。「そして」というリフレインの切実さにおれは眩暈をいつまでもいつまでも。一億と二千年後も愛してるんだぜ。


つまみ買ってきた。もう少し飲んで寝る。今日は酒のつまみしか食ってないなあ。今までもごくたまにこんな日があって、そういう日はとても楽しかった。
気持ちを言葉にすることには絶対的に揺るがない、永劫の価値でもあるんだろうか?
ははは。 ある。 あるよ。 全ての気持ちがそうであるとは言わないけれど、僕たちの気持ちの中には、絶対に言葉にしないと、何と言うか、自分を蝕んでしまうようなものが紛れ込んでいる。
蝕まれるのは好きじゃないから。
われわれ自身のなかで一神教的な考えがどれぐらい拡がっているかというと、一つ典型的なものは、「変わらない私」「ほんとうの私」ってやつです。若い人は、ネクラとかネアカとか言ってますけど、ネアカとかネクラっていうふうに言ってること自体が、すでに性格は変わらないという暗黙の前提を置いてます。(…)だから、いまの若い人は変わらない私がある、それがほんとうの私で、それが世界にたった一つの花だと、どこかで思ってますよ
養老ブレイン孟司せんせいの講演録からなんだけど。前に、ああもう消したかな、板尾創路が「一年後に今とまるっきり違うこと言っててもいいと思う」って言っててすごいそれが良かったんだけど、この養老せんせいの言葉も同じようにクールで清々しい。こういう「ホンモノなんてねえよ」って言葉は嘘がなくて好きだ。んで発言の主旨にはおれは半分同意で、「変わらない私」なんてもんは確かに無いと思うし、自分探しとか言って旅行か何かしてポッと見つけられちゃうような「ほんとうの私」は何も「ほんとう」なんかじゃねえと思うんだけど、でもおれが求めていた「おれ」も結局そういうスピリチュアルな「ほんとうの私」と何が違うのか説明しにくい。もしかしたら同じことなのかもしれない。だから半分だけ同意。
でもいい。おれにとって「ほんとうの私」は未来絵図というか在り得べき姿というか、現状を「こんなもんじゃねえ」と否定して前進するための叩き台として必要だったわけで、結局その試みは躓いちゃったけど、それでも間違ってはいなかったと思ってる。ニーツオルグにはなれなかったよ。でも続くぜバーカ!
ラストデイはまだ来ないけど、作品は終わるし、ターンテーブルだっていつかは止まる
えー最後だから書くけど、おれがインターネット上で文章を書こうと思ったきっかけは「インターネット殺人事件」。このサイトではおれが好きなものがおれの想像もつかない形で採り上げられていて、あーとゆう間に虜にされた。おれも好きなものを好きなように書きたいと思って、ここがはじまった。
実際書き始めてから自分の中で大きな意味をもつことになるサイトは三つ:「ニーツオルグ」、「アシュタサポテ」、「オールアバウトカサノバスネイク」。おれが tebasaki という署名に違和感を感じ始めた頃、ニーツオルグは凄まじい衝撃をおれに与えた。書くことの意義を思った。アシュタサポテにはただ憧れた。ほんとうに素晴らしいテキストばかりだ。オールアバウトカサノバスネイク、いまは ITCHYCOO と名前を変えているけど、おれがここをどういう風に読んでいたかは、他のふたつに比べると言葉にしにくい。ただ大好きだった。これからも読み続けると思う。三つともおれのずっと前を走り続けていて、力強くて端正でちょっと崩れてて時々優しくて、とにかくかっこよかった。それぞれまったく方向性は違うサイトだけど、言葉を吐き出すことにいつも真剣だったのが共通点と言えるかもしれない。うーん言葉足らずだなあ。でも本当に尊敬したりしたよ。うは。あ、敬称略。

テキスト垂れ流しを自称しつつ、こういうサイトみたいにやれたらいいなあ、と漠然と思わない日はなかった。どこまでやれたか分かんないけど、それなりに真剣にやった。たかがインターネット、じゃねえよなあ。だって自分で喋ってんだもん。何かあるだろ、なあ。
他人の気持ちを知ろうとするのは自分のためだ。他人の感情を自分に都合のいい方向に誘導したり、他人の心境を自分の行動の指針としたりするためだ。「人に迷惑をかけない」というのも結局は「自分がされたくないことは人にしない」「他人に不快感を与えているという居心地の悪さを回避する」という動機のはずだ。

サイトはじめたときに書いた文。全然進んでないのな。わらった。

さておしまいだ。前にネタサイトみたいにしたらどうか、と人に言われたことがあったけど、おれにはそれは出来なかった。そういうことするにはちょっとここは大事すぎた。またインターネットに自分じゃない人として戻ってくることがあるとしたら、もっともっと自分から離れた誰かを用意してくることだろう。思えば、tebasaki という人とおれとの間には何だか不思議な間隔があった。けどそれがなんとなく好きだったりしたわけで。よい遊びでした。なんだかんだ実り多く。

むかし、鳩が羽を天に突き上げたまま、胴体を車輪にひき潰されて死んでるのを見た。サモトラケのニケを見たとき最初に思い出したのはこの鳩の死骸だった。なぜ手羽先なのか、って訊かれたら、もしかしたらこのときの羽が脳裏にあったからかもしれない。違うかもしれない。どうでもいい。ただ何かの思いつきのように生まれた tebasaki という人格がこうして大往生を遂げられるのが、結構うれしかったりする。
"casanovastyle" rock da house yo "こるりこ" rock da house yo "basilides" keep rockin da house yo "konagona" turn da house yo "wonder88" rock da house yo rock steady oooo weee
書いちゃったよ。あはは。すみません。

最後に。好きな歌があるんですよ。
あの曲を いま聴いてる
忘れてた君の顔の輪郭を ちょっと思い出したりしてみる
ありがとうございました。さようなら。

2007/04/29

1

そういえば今月から働いてますが、多忙を極めて嫌になったからここを閉じるわけじゃないです。っていう話を書いてみる:

ここを終わらせることを決めて、感傷じみたことを書いた記事に「 6 」というタイトルを打ち、同時に、別々の時期に書きはじめては途中でほったらかしていたテキスト数本をそれぞれまとめてみた。一人称もトーンもバラバラなんだけど、言ってることはほとんど一緒。つくづく同じところで堂々巡りしてたんだなあと思う。それからその記事に「 5 」から「 2 」までの番号を振って、あとは勝手に終点まで進んでいくわけだ。

「勝手に」について。seesaa ブログには記事の公開・非公開を自動タイマーで切り替えてくれる機能がある。だから日付と時間を指定すれば、あとは自動でテキストをアップしてくれる。「 6 」から「 2 」と題されたテキストたち、それからこのエントリも、おれじゃなくて seesaa さんがアップしてくれていたわけだ。タイムスタンプを出鱈目に打って煩わそうとしたけど、腹も立てずに着々と仕事をこないしてくれたようだ。ありがたいね seesaa さん。

ここを終わりまで操縦するハンドルは、おれの手から離しておきたかった。ハンドル握りっぱなしてたら、なんか余計なことを書き足して、せっかくぼんやり見えかけたおれの堂々巡りが違う何かになってしまう気がしたからだ。喋り過ぎちゃいけない。続きは web 以外で!

んで最後まで来た。ここまで来たらもう好き勝手喋ってもいい。tebasaki はぎりぎりのところで言葉に四肢をちぎられずに済んだと思う。ほっとした。これでおれは前に進めるはずだ。tebasaki さんさようなら。

広大なインターネットに向けて、おれにしか分からない/おれにしか重要でないこの感情を呟き続けている。いいよそれで。いつもそうだし。

2007/04/28

2

僕にとって「芸術」とはなんだかとても崇高なもので、ほんの一握りの人間がそれに愛されて「美の女神に祝福された」作品を十把一絡げの我々の前に見せてくれるのだ、となんとなく感じている。だからそんな素晴らしい芸術を生み出せる人間がそうそうそこいらにいるはずないので、それが出来ますという顔をした自称アーティストがゴロゴロしている様子は、言ってしまえば信じがたい。それはなんだか素晴らしいものであるはずの「芸術」が冒涜されているようで。しかし一般に「芸術」というのは必ずしもそんなご大層なものではないようで、そう大上段に構えなければ自由な創作というやつは悪いもんじゃない。はずだ。問題は「芸術」をむやみやたらに神格化する心性の方にあって、要するに僕は「芸術」が結局何であるのかよく分かっていないのでそれに由来する自称アーティストへの不信は口に出すに値しない。

さて、よく分からないものをとりあえず崇拝するというのはあまり理知的なことじゃないけど、それはコロンビアの諺にあるように人間にはよくあることだ。かの地を代表する作家ガルシア・マルケスはしばしば、この諺を引いては人々の「盲目の崇拝」を作品に採り上げている。事実、我々が普段なんとなく許容しているものには、よく考えると何故良いのか分からないものが少なくないはずだ。それは多くの人がそんなことに深くかかずらう必要が無いから淘汰されていないだけという面もあろうが、しかしそれ自体無意味なことではない。こういった一種の幻想は事実そこに存在している以上つくりあげた誰かがいるはずで、それは往々にして産業基盤に乗っているのだからその誰かが得をしているはずだ。いまさらだが、我々ひとりひとりを少しずつ騙すことで食べている人間がいるわけだ。それ自体の良し悪しはここでは問題としない。当たり前のことだから。

名前をつけるのは定義することだ。言葉にするのは形にすることだ。漠然とした幻想も、言葉にしようとすると輪郭が見えてくる。もちろん言語化というのは非言語の近似値をとることに過ぎないので、それを見誤ると、言語化したところで幻想が別のいびつな何かになってしまうだけだ。「これはなんだろう」と思ったら、ひたすらそれを凝視しては記述し、推敲を繰り返すしかない。推敲を忘れる、あるいは疎かにすると、誤った記述や定義に引き摺られる。

そもそも、幻想は取り除かれるべきものだろうか。人間の視界は左右の角度にして 180 度程度で、そのうちいちどきにピントが合わせられるのはせいぜい 2〜3 度だそうだが、それでも我々の目に映る世界はあまりに厳しいもので、ならばピントが合い過ぎた世界の残酷さを思うと、177 度の索漠に囲まれて嘘っぱちの安心を貪るのが賢明に思える。たとえばコロンビアに件の諺が存在しなかったら何だというのだろう。ガルシア・マルケスは当然そんなもの引用してないけど、別にそんなことどうでもいいじゃない。人間にはよくあることだよ。

2007/04/27

3

スピードワゴンというお笑いコンビをはじめて見たときの感覚は今でも覚えている。当時の彼らは今の「あまーーーい」を生み出す前だった。当時の定番は、ボケの小沢が世界の描写をどんどん逸脱させていき、途中までそれに付き合っていた井戸田が遂に「そんな世界あたしゃ認めないよ」と匙を投げる、というもの。おれにはそれが妙に感動的だった。否定が笑いをもって受け容れられることが。

誰か/何かを思い切り否定してそれが全面的に受け容れられる――なんてのは、我々の生活においては漫才ほど容易じゃない。まず対等の誰かを否定すること自体が必ずしも褒められたことじゃないし、その内容もまた別問題になるので、ある程度限られた条件の下でなければ同意を得にくい。しかし否定することはあまりに容易い。易きに流れれば何でもかんでも否定できる。とはいえ無難な肯定こそ安直なのもまた事実で、難しいのは「進歩を目的とした否定」だ。あれはこうだから良くないと思う、良いと思うなら聞かせてくれ、納得したらおれも好きになるだろう。その姿勢は大切だ。しかしこれはファイティングポーズの一種なので、やはり時と場合によって避けるべき態度だ。日常は戦場じゃない。かように、否定は難しい。

なんでも好きになりたいので、いま好きじゃないものについては率先してイメージを動かそうとしている。つまりファイティングポーズだ。しかし日常は戦場ではなくて相手はおれより大人なので、結局殴り合いにはならず場は穏当に収まり、ただおれのネガティブな意見表明という形で終わる。まあそれは相手に咎は無くておれが空気読めないのが全面的に悪いんだけど、とにかく現状としてネガティブな言葉を撒き散らすだけに止まっていて、すると自分の言葉のネガティブさに引き摺られそうになる。それを危うく思って、言葉とある程度距離をもとうとする。言葉は方便であって意志とは別のところにある、それは人の言葉からその人となり全てを判断できると思うような誤解を避けることでもある。ところがこれがまた悪くて、客観性を持つためにつくった距離が開きすぎて、自分の言葉の重みを感じられなくなる。「言葉が方便である」というのは、○:「言葉はあまりに強力なツールだから無自覚に振り回すんじゃなくて気をつけて使いましょう」という主旨に繋がるものであって、×:「本当に大事なものは別のところにあるんだから言葉は二の次でいい」ということにはならない。ならないのに。

自律が自分を脅かす。なんのための理想なのか。tebasaki はひとところに止まったまま腐るしかないし雨曝しなら濡れるしかないしポルナレフは死ぬしかない。

2007/04/26

4

オタク呼ばわりされることが嫌いな知人がいる。聞くと「あたし腐女子じゃないし」。おそらく彼女の中では、女オタク=腐女子という回路が出来上がっているのだろう。というより、理屈では腐女子ではないオタクが存在することは分かっているんだけど、実感としてこのふたつがイコールで結びついてしまうようで。辞書的な意味とは別にある、自分の中の定義だ。

おれは 2 ちゃん見るしたまにまとめサイトも覗くけど、「ねらー」呼ばわりされるのは好きじゃない。これも定義の問題で、おれにとって「ねらー」とは究極、実際に 2 ちゃんを見るか否かとは関係ない。そう自称すること・そう呼ばれるのを受け容れることは「人のブログでキリ番争いだの『vip から来ますた』だの電凸だのオフ会で居酒屋破壊だの放火予告だの殺害予告だのの洒落ですまないようなことまで『ネタをネタとry』なぞ抜かして『2 ちやんねる』への帰属意識の下に正当化しようとする脳の短い人間」だと認めることに等しい。
おれが見てきた「自称ねらー」はそういう類の人間ばかりというだけの話で、辞書的にはその言葉が「頻繁に閲覧したり書き込む人」を指すことは分かっている。が、他の人はおれのようには捉えないだろうとは分かっていても、実感としては上記のような感覚を拭えない。最近は多少落ち着いてきたからそれに気付く余裕もできたけど、以前もっと「ねらー」が嫌いだった頃はこの語と上の意味が完全に結びついていたものだ(恥ずかしながら「ねらー」と呼ばれたことに腹を立てて暴力に訴えたこともある。ありえない)。
おれは辞書的な意味での「ねらー」を嫌ってるわけじゃなくて、上のような人間が嫌いなのだ。そしてそう分かっていても――これが重要なんだけど――この感情は油断するとおれの中で「ねらーが嫌い」と処理される。そのものではなく、語とそれが指す意味の方に引き摺られてしまうのだ。

「オタク」や「ねらー」といった比較的はっきりした言葉でさえこうなんだから、もっと曖昧でデリケートな言葉なんか尚更むずかしい。これが一見かっちり定義されているように見えたりすると更にややこしいことになる。「A が B という意味なのは自明だ、そして A は C だと決まっている、だから B は当然 C だ」という、加速的に決め付けの度合いが強くなる三段論法が成立してしまう。人が「また大阪か」というとき、その大阪は実際に京都と和歌山に隣接する一帯を意味してはいないのだ。

そのものが実際にどうであるかより、語がどういう意味かに振り回される。世の中の争いごとはほとんどここに起因するんだろう。言葉が実際に何を指しているかというのはことほどさように重要で、しかも忘れられやすい。

そう分かっていてなぜおれは未だここにいるのか。悲しい。でもいつか何とかなると思っていたんだよ。続きは web 以外で!

2007/04/25

5

自分がされたら嫌だと思うことを人にしてはいけません
それは正論だけど、これは「自分がされても平気なことは人にしてもいい」とは違う。たとえば僕は「キチガイ」と呼ばれることに喜びさえ感じるような人間だけど、だからといって僕が人をそう呼んでいいということにはならない。自分の感受性を免罪符にするのは正しくない。

分かっていてもそれをやってしまうのは、自分がひどく不寛容だという自覚があるからかもしれない。「こんなに不寛容な自分が受け容れられることなんだから、相手が受け容れられないはずはない」という理屈だ。相手の寛容を勝手に高く見積もって理解や我慢を強要しているわけだ。そもそも寛容性というのは絶対量じゃなくて質の問題なので、仏のような人がただひとつまったくくだらない点で怒るのを我慢できない、ということだって当然有り得る。つまり上の「理解や我慢の強要」は、卑屈が裏返った傲慢さ以外の何物でもない。
今までいくつも書いてきた自戒用の文章。しかし今回は自然にこう続いた。
そう理解はできる。しかしそれよりも、おれの寛容を丸ごとすっぽり包み込んでしまうような、そんな寛容をおれ以外のほとんど全ての人は備えているのだ、おれなぞおれなんて、という思いのほうが遥かに実感的なのだ。それは手首の傷を見せびらかすような不幸自慢とか欠損自慢の類と何が違うのかというと
書き切ったところからようやく何かがはじまるはずのテキストが着地点を見失ったとき、ここも限界かもしれない、とはじめて思ったのだった。

2007/04/24

6

消すとか消えるとか考えると、いつも思い出すことがある。

小学校に入ったばかりだっただろうか、地元の図書館で手塚治虫『火の鳥』を読んだ。何編だったかも忘れたけど、作品の中に、輪廻転生の過程をかなりテンポよく、10 ページ弱で描いている部分がある。僕はこのくだりが物凄く怖かった。

主人公は何かの拍子で死に、気付くと魚か何かに生まれ変わっている。さっきまで人間だったはずなのに…とうろたえている間に別の魚に襲われ、また死ぬ。次に気がつくと鳥になっている。そうして死と転生を繰り返すうちに人間だった頃の記憶は薄れていき、最後にはすっかり忘れて、それでもただ生まれ変わり続ける。

僕には、自分の「今」を忘れてしまうことが恐ろしかった。単純に「今」が幸せだから、ということではない。「今」の生活を失うことより、それを忘れてしまうことの方が取り返しがつかない気がして、怖かったのだ。

この忘れること・忘れられることへの恐怖は抜きがたく僕の中にあって、今でも「忘れないで」というありふれた詞さえ耳にするたび辛い。忘れることは残酷だし、忘れられてしまうことはそれ自体あまりに悲劇的だと思う。
will you still remember me well?
当たり前の話だが、これは疑問文ではない。「忘れ去られること」は恐ろしくて悲しい。そしてそれを諦めつつも受け容れようとする痛々しさが、この詞を聴くたびに僕を切なくさせるのだろう。
君は僕を 忘れるから
そのときには すぐに 君に会いに行ける
これほど希望に溢れた言葉が他にあるだろうか。でも信じることはできない。僕はどうしても、忘れられたら終わりのような気がしてしまう。果たして会いに行けるのか。そもそもそうしてまで会いに行きたい人が確かにいたような気がするのだけど、もう思い出せない。そしてここも消え、忘れられていくわけだ。悲しい。でもそれすらどうせ忘れる。本当に好きだったのになあ、ここ。

2007/04/23

きめた

いつか戻ってこようと思ってたんですが。しばらく更新再開して、4/30 をもって完全に停めることにします。最後はバーって連続更新してドーンって消えたりしたいですよね。バーって。ドーンって。URL に愛着があるのでブログごと削除はしませんが、記事自体はまた消すかも。消さないかも。わっかんねえ。

せっかく三年近く続けたんだから、「たかがブログ」みたいな態度はファックして、自分なりに意味のある形で終わらせたいと思います。それ(決意表明も)をここに書く意味はまだ見つけかねてるんですが。それにつけても手羽先日記! 最近喰ってねえなあ<手羽先

2007/04/16

 

ご承知のとおり生きてます。

mixi では日記を続けながら、慣れ親しんだ tebasaki ではもう書けないという収まりの悪さ。やっぱりおれはここで・覚束ない手で・焦点の合わない目で・××のような言葉で・ヘイトだのラブだの書き散らしていくのが楽しくて好きだ。でもそれだけではおれも tebasaki も生きてる意味が無い。今日は閉じたは閉じたなりに、お知らせにあがりました:

反応をいただいた文章をいくつか戻しておきました。最低限の誠意を見せたつもり。誠意なんて何なんだか分からないんですけどね。でもそこを突き詰めるのは他律と自律の根本的な違いを考えることで要するに無駄ですね。都合のいいように受け取ればいいじゃないか。なあ。僕らは幸せになるために生きてるんだし。

2007/04/09

 

失敗した話を詳しくするのもアレなので省きますけど、おれはここで色んなことをやろうとしたわけですよ。で、ちょっといろいろ負わせ過ぎてしまったようで、当初の狙いからはだいぶズレてしまいました。楽しかったけど、このままじゃ目的からどんどん離れてしまう。ただ、ここでは今まで折に触れてそっと声を上げていて、それは一応合目的的なことでした。ならここから荷を降ろして自分で背負うときも、小声でいいから宣言しておかなければ嘘だろう、と:

しばらく閉じます。別に忙しいとか大きな不幸があったとかじゃなくて、単純にそうするのがいいと思ったからです。出しっぱなしは汚くて好きじゃないので全記事撤去。permalink の保証とかいろいろ考えたんですが、とことん不誠実ですみません。この記事もそのうち引っ込めるはず。それにつけてもここにきてようやく「手羽先日記」というカテゴリ名にふさわしい記事で。

2007/03/14

ドジっ子を見たこと、あるいは救済のために

ショップ 99 ――どの程度にチェーン展開しているのか分からないが、おれの生活圏である東京 23 区内ではしばしば目にするこの 99 円均一のコンビニにさっき買い物に行ったら、二ついいことがあった。

一つはテーマソングの復活。
この店はある程度の規模の小売店にはありがちなようにオリジナルソングを持っていて、これが「ショップキュッ♪キュキュッキュキュキュッ♪」というサビの執拗な繰り返しからお客様本位のアピール・間奏の派手なベース音に至るまでくどいほどコテコテにキャッチーな「お店ソング」。これが近所の店舗ではここ数ヶ月間なぜか有線放送に店内 BGM の地位を奪われていて、おれはそれが不満だった。しかし、先ほど行ってみるとこれが華麗なる復活を。素晴らしい。感動のあまり惣菜コーナーの前でしばし立ちすくんだほどだ。ショップキュッ。なんたる語感。

二つにはレジ打ちの女性がなかなかのドジっ子だった点。
この人はおれが入店したときは棚の整理をしてたんだけど、これがかなりの不器用さで、同じ動作を何度も繰り返してるのに作業が進む気配が無い。物を落とす。棚の詰め方が下手すぎる。その合間には律儀に「あ、申し訳ありません」と背後を通る客に頭を下げるから、ますます作業が捗らない。おれが見ていた数分間に彼女が足元の段ボールから棚に移し終えた商品がどれほどのものだったか、数えるに忍びない。しかしそのときもレジ打ちの間も顔は常に燦燦たる笑顔で、まずビニール袋がうまく開かず、開いたところで商品を詰めてても毎度毎度野菜を積み損なってもたつくので、その都度慌てつつもひときわ笑って「ぁぁ、申し訳ありません」。おれがエコーズ Act.2 持ってたら顔の横の余白に「あわわ」とでもぶち込んでやるね。間違いない。ヘブンズドアーで「ミスするたびに舌を出して『またやっちゃった☆』と言う」って書き加えてやってもいい。だからどうってことでもないけど。

さてここで言いたいのはドジっ子萌えの云々ではなくて、ウェルメイドであるということについてだ。
(以下は少しずつズレるので格納)

2007/02/03

小さめの宣言

旅先で 23 時寝→ 2 時半起きってのが二度もあったんだけど、今またやってしまった。老化だ老化だ。どうなってるのあたしのカラダ。ニコニコ動画でぷよぷよの神動画とか見てたけど(あれすげえな)どうにも片付かないので、もののついでだから眠くなるまで自分語りする。

一週間旅してたんだけど、一人旅で分かったのは、雪しか無いようなところで一人きりというのは結構危険な精神状態になりやすいってことですかね。誰もいないってのはつまり外部から修正が入らない自分の中の他人のイメージに取り囲まれてるってことで、そこらの雪をスクリーン代わりにばんばか人が出てきて全っ然落ち着かない。ほんと空気読まないねあいつら。

あいつら。
上といきなり逆なこと言う上に今更今年の抱負の話なんだけどさ、今年はいろいろを許していこうと思ってるんですよ。去年までもおれは自分が嫌いなものについて考えるのが好きだったんだけど、それは自分の中で嫌いを醸造して増幅してエネルギーに変えてたわけね(これ燃費最高)。けどそれ一辺倒なのももういいかなーと思って、今年は同じ「嫌いなものについて考える」でも肯定的な方に持っていこうと。つまりよく知ることによって許せるようになろうと。「完全に許すことは忘れることだ」とは言いますが、分からないから厭ってのは確実にある。知ることで克服したい。知った上でやっぱり嫌いだったら燃料行きだけどな! そういうわけで今月中にひとつふたつの嫌いなものを克服したいと思ってます。おれ誰にも言ってない嫌いなもの結構あるから、こっそり治癒。ああリアディゾンは今のところ許す予定も無いです。あれは燃料。おれがおれになるプロセスのひとつが動き出す!

おれがおれになるプロセス。
板尾創路がインタビューで「言ってることがコロッと変わってもいい」と言ってて、その姿勢はとてもいいと思ったんだけど、おれ個人にはやっぱり絵図が必要だ。というかあっち(絵図)が本来のおれなんだよ。今の状態は何かの間違い。何でこんなに壊れちゃったのか分からないくらいダメッダメ。おれって凄いやつなんだよ、おれなんか足許にも及ばないくらい。
これは本来あるべきところに至る、進展じゃなくて回復のプロセスだ。成長とかよりもっと確信的なものをもって大きくなるのだ。なりたい、じゃなくて、ならなきゃ間違いなんだよ。いま得ているものに相応しいおれであることが正しいはずだ。電波だなこれ。大丈夫か。いや電波でも何でも、とにかくおれはおれにならなくてはいけない、可及的速やかに。すごいんだぜおれ。キスとか超うめえの。キチガイだね。

こんなもんじゃないって結構本気で思ってるんだけど、おかしいですかね。このへんちょっと人の意見が聞きたい。
うん、おれおれおれおれ姦しいけど、しょうがないんだ。肯定を探しているだけなんだ。ああ結構大事なところだけど眠くなってきたのす。アップする意味はよくわからんけど投稿。見てろよ世界。バウンス。寝る。

2006/11/21

おれは差別と黒人が大嫌いなんだ

最近長文が多いけど勘弁してね。今回も長いよ。だいぶ前に見てきた同性愛者サークル主催の講演会+パネルディスカッションについて。ちょっと無言では終われなかったので。

参加動機。はっきり言って興味本位でしたが、馬鹿にして入っていったわけでもありません。むかーし多感な時期にゲイの人に迫られたせいで自分に言い寄ってくるゲイは殺戮対象なんですが、そうでないゲイは好きにしてもらってて構わない、というスタンスです。人をとやかく言える趣味でもないし。

前半はレズビアン議員の講演会。同性愛者に対して異性愛者は知らず知らずのうちに色眼鏡をかけている、という話が印象的でした。これはこのテーマに限らず「黒人は暴力的」「朝鮮人はカッとなりやすい」「関西人は厚かましい」等、何気なく取り入れがちな差別的言辞への防衛策になると思いました。おれの「好きにすれば?」というスタンスでは実は不十分で、意識して修正するようにしないと本当に平等な視線は得られないのかも。コトの真偽はさておいて、そういう可能性には気付かされました。

何でちょっと奥歯に物が挟まったような言い方なのかというと、その後のパネルディスカッションでまた思うところがあったから。要するにイベントを主催する側のゲイ学生の意識が非常に低い。

Q&A。セクシャルマイノリティーについて研究していたという男性(ノンケ)からの質問。レズビアンのイベントにバイセクシャルの女性と参加したら、あからさまに歓迎されなかった、というこの男性。彼は「自分も空気読まなかったかもしれないんですけど」と認めつつ、そのとき、いわゆるマイノリティである彼らが逆にマジョリティになる機会が今後増えていくだろうことを指摘し、その場合にどういうスタンスをとるか、という質問をした。少数派の立場を理解した上でとれる行動というのがあるのではないか、ということだ。おれはこれには興味をそそられた。少数派になったことのない人間には少数派の気持ちは理解しにくい。だからこそ――セクシャルマイノリティとして、心性に根ざした少数意識を抱えている人間として、性意識以外の少数派に向けられる気持ちがあるんじゃないか――。

結論から言うと、彼らはそんなことは何も考えてなかった。ただ、同性愛者のイベントに異性愛者が立ち入ることのリスクを指摘するだけだった。レズビアン議員の方はさすがに質問者の意識に気付いて「非常に参考になります」と言ったが、自分たちが差別者に回り得るという指摘については何も言及しなかった。

『神聖喜劇』第五部・第四「階級・階層・序列の座標」に、印象的な場面がある。床屋、版工という職業を蔑視されてきた謂わば被差別者である教育兵が、虐げられてきた者としての立場にも拘らず、まったく無自覚に以下のような発言をする場面だ。
「おれたちが、なんぼ手職の人間じゃちゅうても、四つか何かじゃありゃせず、どっこも違うところはないとじゃもん。相手がだれだったちゃ、人様からそげんむやみに見下げられにゃならん訳はないよねぇ。」
無論問題とすべきは「四つ」=被差別部落出身者に対する蔑称である。自らは差別を受け、同じ人間を蔑視することの愚かさを身をもって知りながら、自分はそれと知らずに他人を貶めてしまう。この根の深さ。

セクシャルマイノリティーがいま日本でどんな差別を受けているか、おれは知らない。しかしそれを問題にすべき場で彼らが被差別者としての意識しか持ち得なかったことは印象的だった。その姿勢から何が生まれるのか、おれには分からない。そして自分自身がそれ以上に危うい立場にあることも意識し、戦慄するばかりだった。おれはだから、かのサークルの gay (英語の「陽気な」などの意味も含むそれ)的要素を、なんとなく疎ましく憎く思ったのだった。自己嫌悪を反映して。表面上平和な世だからこそ、病を感じる。

2006/10/29

学ぶことと働くこと

こないだ某投資機関の偉いさんの講演を聴いたんだけど、その中でちょっといい話があったので書いておく。

ジョージ・ソロスの学生時代の専門は、カール・ポパーだった。

ジョージ・ソロス。デリバティブ取引の神様、日本でも有名な投機家、年に 100 億ドル単位で稼ぐ化け物。他方で著名な慈善家などの顔も持っている彼だけど、それでもやはり、世界屈指のマネーメイカーとしての印象の方が強いだろう。しかし、その学生時代の専門はカール・ポパー(哲学者)だった。現在に至る彼の投資哲学には、ポパーの思想が息づいている――。

(wiki ほかを読むと専門というより傾倒していただけのようにも見えるし、そもそも彼は経済系の大学に在籍してたんだけど、一応多少なり親交があるらしい人が話していたことでもあるし、今回おれはそっちに重きを置くことにする。どうでもいいけど「 wikipedia - ジョージ・ソロス」の読みにくさは異常。直訳?)

文学部とかの人がよく「金にならねえ専攻でさー」と嘆いてるのを見る。おれ自身はその意味で「金になる」専攻で、「金になる」講義を多く受けてきた。けどおれはそういった知識の活きる金融業界には進まないし、そもそもそんな専門知識なんか持ってない。
大学で学ぶことなんてたかがしれてる、と言いたいわけじゃない。大学で学ぶことを生かすも殺すも自分次第だってことだ。おれは「金になる」学問をもって「金になる」仕事に就かなかっただけで、ソロスはその逆をやった。比べるのもおこがまし過ぎるんだけど。

そりゃ授業で出ることがそのまま仕事に使えるもんでもないだろうし、ましてや「『論理哲学論考』などを記した哲学者は?」「ウィトゲンシュタイン!」「正解!100万円あげる!」なんて金儲けの仕方は有り得ない。しかしソロスの在り方を見ていると、学問の「卑近な」可能性にも改めて気付かされるのだ。
また別の角度からの話をすると、おれは確かに学部で学んだ専門知識をそのまま活かせる業界では働かない。しかしその専攻は、おれの就職活動ではあらゆる面でプラスになったし、仕事の上でも凡百に埋もれない可能性を与えてくれている。これも「卑近な」可能性のひとつだ。

投機活動で成功するために必要なのは「人と同じ事をしない」ことだそうだが、それが投機に限った教訓でないのは明らかだろう。働く上で、あるいはその前段階で、人は多かれ少なかれ際立たなくてはならず、学問はそのためにも活きる。そしてそれは働くことに止まらず、人生すべての営為に当てはまることかもしれない。学問は何も学者のためだけにあるものではないのだ。

おれ自身が真面目な学徒とは言えないので、上の理屈は自分の耳に痛いところもあるんだけど、学問そのものには金になる/ならない、役に立つ/立たないも無い、ってことは忘れないようにしたい。件の講演の演者は、冒頭の言葉に続けてこう言った。「だから、貴方たちが金融を専門にしていなくても、金融の世界で活躍するチャンスはあるんです」。我々はいい大人であって、何も誰のせいにもできない。それは裏返すと、とてつもない全能感だ。

参考 :
寺島実郎の‘発言’ - 「ジョージ・ソロスの宣戦布告」
wikipedia - カール・ポパー
「いい大人」に関する Google 検索

2006/06/26

自己言及経由赤迫行

ある人に、このブログを読んで伝わってくるものとして「第一にお前の性格の悪さ」と言われたんだけど、これは真理だな。俺は基本的に怒りとか苛立ちとか、論ずる対象への負の感情に基づいて更新する。

人が思考の道筋をまとめるアプローチというのは大きく演繹的か帰納的であると言えると思うんだけど、それでいくと俺の書き方・考え方というのはまったく帰納的なものだ。まず先立つもの(負の感情)があって、それに理屈をこじつけていく。そしてこのコアになる感情が強ければ強いほど、論としてのまとまりとか論証を引き付ける力は強くなる。少なくとも俺は対象に憤っているときの方が、それを愛好しているときよりも執念深くなる人間であって、おかげでネガティブなテキストの方がまとまりやすい()。そして殆どの日記書きの人たちも同様に帰納的なアプローチをとっている。ように見える。

さて上記のように着地点が予め分かっていると非常に助けになるのは、発想というものが何も無いところからポンと出てくるものではないからだ。これは何も「あれが嫌いだ」とかいう感情に限らず、レポートなり企画書なりを書くときの目的・動機、というのもその「着地点」のひとつ。こうなると日記の場合と違って、当たり前のように着地点を把握できなくなることがある。
例えば「ごみ問題」についてのプレゼンを採用面接でやる、となったとき、その目的は「ごみ問題を解決する素晴らしいソリューションを提示すること」ではなく「採用されること」だ。これは結果的に同じことであったりするけど、本質的にはまったく別。もちろん「ごみ問題について自分なりの結論を出すことから逃げない」というのも大事だけど、行き詰まった際のアプローチの変え方としては有効だと思う。そもそもその「逃げない」というのが本当に合目的的であるかというのは一度考えてみる必要がある。
当たり前のようだけど案外忘れそうになることは多いし、実際これを意識すると自分が取り組んでいる問題の姿かたちは少しはっきりしてきて、やることも見えてくるんじゃないか、と思う。

以上は自分なりの考える姿勢論みたいなもので、あくまで経験則を出ないからなんとも貧弱なんだけど、次は「発想のプロ」が書いた本を引いてもう少し考えることについてメモしたいと思う。

2006/05/27

2006/05/11

アウトサイダー

【概要】
はぐれオタクとしてのオタク論と自分語り。
【本文】

2006/04/19

恐怖体験アンビリーバボーウ

先日、近年見なかったくらい独りよがりな人と話した。まず会話の内容が風変わりで、曰く「珍しい苗字の人と結婚したい」「東大に入り直して官僚になりたい」「自分が言ったことは真実になってしまう」などなど。まあこのくらいの話ならする人は結構いるのだが、初対面の年上の人間にいきなりこの話題を畳み掛ける人となると、なかなか見ない。ただこの人が本当に独りよがりなのはそこではなくて、それは次の一連の発言に垣間見られる。

  • 「狂人と天才って紙一重って言うじゃないですか」

  • 「異常犯罪者って表現意欲が間違っちゃって出ちゃった形だったりすると思うんです」

  • 「わたしも何かつくらなきゃ」

  • 「わたし狂ってるんですよね」


  • これは独りよがりもいいとこ。何より狂人に失礼。
    「精神病っていうのはただ医者が名前をつけただけのこと」という意見は正しいと思うが、それを「凡人が天才を恐れて」とまで言うのは拡大解釈。その解釈の根拠に「私=精神疾患もち=天才」という前提が横たわっているので余計にたちが悪い。
    君のような「個性と特性と天性を区別できるほとの世知もなく、理想のなにものかになれる者など学年にひとりいるかいないかなのに、このわたしこそはひとかどの人物にならなければいけないし、なれるはずだという幻想からなかなか逃れられず、映画と演劇と文学に造詣があるふりをしつづけ、過食か拒食におちいりがちなしんどい娘たちは、ワセジョと総称される」((C)清水博子)らしいよ。一山幾らの子が畏れ多くも狂人だなんて名乗るんじゃない。

    っていう話を何で本人にしなかったのかというと、あまりのオーラに呆気にとられて何も言えなかったからです。あんなの初めて見た。書くのも二日遅れだし。「ああいう子が少なくないのかもなあ」と思うと、話してる最中には感じなかった恐怖が後から沸々と。

    いい子悪い子の評価とは別だよなあ。俺はどっちかって言うといい子だと思った。ただ少し年上なだけの俺から見ても余りに幼い。そしてそれゆえに邪悪だ。

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